あれもこれもというよりこれで良いんだと思うのがプレートの醍醐味。
一つ一つはなんて事ないのですが、集めたら最高にこれで良くねに変貌するってのがシナジーと言われるやつです。
プレートはシナジー。
一周回って、酒飲めるスナックスタンドがかっこいい。
そう、かっこいい。
一つ一つはなんて事ないのですが、集めたら最高にこれで良くねに変貌するってのがシナジーと言われるやつです。
プレートはシナジー。
一周回って、酒飲めるスナックスタンドがかっこいい。
そう、かっこいい。
抜粋 参考まで
色々な国際関係が述べられている。
日本人はもっと世界を見るべきだ。見るとは決して与えられる受動的なものではない。探せば必ず事象の理由が断片的に手に入る。
あとはその断片的要素を組み立て、考える。
例えば国葬のコストに対する価値は外務省が会談リストをきっちり発表している。
ドル基軸による21世紀型コロニー形成がグローバリズム定義。うなづける部分が多い。
本日、私は、特別軍事作戦に参加している兵士と将校、ドンバスとノボロシヤの兵士、部分動員令の後に愛国的義務を果たすために軍隊に参加し、心の叫びから自ら軍の登録と入隊の事務所に来た人々に語りかけたいと思う。
最近スペイサイドでも結構ピーティーなものが流行っています。
元々ボトラーズばかりに卸していて自社ボトルとしては大して流通させていなかった所にその傾向。アイラほどキツくなく、シェリーの香りがきちんと残るそんなお上品な奴ら。
どうもモルト屋が個別にヘビーピートを卸していたりでこんな事になっているようです。
日本の某北海道のお高いクラフトブランドなんかはこの辺の味を詰めているようですが、正直高すぎる。探せばまだまだそんなお上品な似たベクトルの味は沢山あります。
うちは35mmなんてしょぼい量では出さない上に、今の所高くて一杯1200円位のものしか置きません。
キャンベルタウンの香水のような匂いで出汁の味がするって最強のスプリングバンクとかは高いんで飽きませんが、代わりにそのジュニア版のロングロウ置いたりと、結構頑張って探しています。
困るのは、ソーダ割。
好きに飲めば良いのですが、こんなウイスキーだよと言ってもソーダで割った瞬間にあり得ない甘さが飛び出してきたりと、最初のニュアンスと変わるんで説得力ありません。
それはソーダで割るからです。僕のせいではありませんよ笑
因みにハイボールって、蒸留酒を何かで割れば全部ハイボールです。
ウイスキーのソーダ割と定義したのはサントリーです。
チェイサーとは読んで字の如く追う酒です。
ビールのチェイサーがウイスキーであってウイスキーのチェイサーはビールではありません。
水は、チェイサーではなく、水です。
みずもくれ、と頼みましょう。
リッキージャーベイスは基地外じみた善人。
世界は黒と白を混ぜて全部グレーにしてしまう。これは日本人がそうなのではなくて世界共通。グレーな世界に慣れているから薄いグレーと濃いグレーの違いがわからないほどに麻痺している。
白と黒の境目がはっきりしている人、それが善人。どちらも持っていて然り。
混ぜるなって話。最高の理想主義の話。
ゲバラより理想論。ヴァイブル。
先日富士山行ったんだけど、
あのどでかい山がネガティブの塊でした。
子供は親に付き合わされ、勿論体力不足でぐったり。母親は切れて喚き散らし、親父は折角だから頑張れ頑張れの一点張り。
登山道では道のど真ん中で倒れ込み、全てに於いて避ける気も更々皆無。
だからゴミも増えて文化遺産であって自然遺産ではないんだなと。
一度は登りたいって気持ちはわかるが、準備は持ち物や段取りだけでは無いよ。
一度滝に打たれてからこい。
人の文句、家族の文句、SNSへの文句。
人生や生活なんて自分軸でなければ永遠に幸せになんてならない。すべて押し付けられることへの文句、そうなれば自ずと色々押し付けている自分に気づくべき。
結果何一つ決められず、全ては何かしら第三者からの選択にどっぷり浸かる毎日。
そんな人々が政治や正義やモラル語るんだから、そりゃポジティブな議論なんて生まれないよね。
もっと良い意味で利己的になるべきだ。
ディナーラッシュという映画に出てくるレストラン内のバーテンは教養豊かでどんな質問にもスマートに回答する。謎かけに近いアッパーなビジネスマンの質問、カウンターに10ドルが置かれる。一息の溜めの後、完璧な回答をこなし、さっとその10ドルを回収する。
カウンターに於いて座る人間のステイタスなどどうでも良くよく、ただその根本スペックをぶつけ合い会話を成立させ、小さなマウントを取り合う。会話上の小さな小さな勝負が行われる。さりげなく、そしてスマートに。
カウンター商売は知性と教養の塊でなければならない。スコッチというだけの注文に、何を注ぐか。良いバーテンは注文主のプロファイリングを瞬間的に行う。その為にボトルを並べ、店の価格帯をきっちりと提示している。アーリーやジムビームなんかがズラズラ並んでいるのなら1ショット500〜700円。10年以上のスコッチが並ぶなら1000円〜。その前提で価格帯のミドルクラスのスコッチを注ぐ。いきなりアイラなんか注がない。ノンピートも注がない。
一つの注文からやり取りは始まっている。フィデックすら知らないのなら、バーで本当に楽しむことが出来ない。シンプルに、スコッチを注文し、何を出してくるかから愉しむものだ。無知であるなら宣言する必要がある。俺はスコッチを知らない、でもスコッチが飲みたいと。だからこそ客は複数杯頼む義務がある、バーテンには3杯目までに美味いと思わせる物を注ぐ義務がある。
少しづつ会話が始まる。バーテンは相手が何のプロかを知る必要がある。何故ならお互いの恥をそこで精査する為だ。踏み込んではいけない領域にボーダーが出来れば会話にトラブルは起き得ない。ごくごく当たり前の話、例えば、上司や会社への不平不満。そんなものは掲示板で殴り書いてクソな慰めを媚びれば良い。
具体論に於いて解決法を求める事もナンセンスで、何故ならそれを行うのは当人であってカウンターサイドには何の責任も伴わないからだ。
良いバーテンは教養が深い。単に勉学的なものではなく、考え方。途轍もなく会話の経験を積んでいる。学が無かろうと、その経験を酒に添えて販売している。それをしないバーテンは寡黙だ。寡黙なバーテンは1.5流。1流のバーテンは必ず的確な考え方を持っていて、酒に添えてそれを提示してくれる。そして付け加えるなら、どんなトピックにもだ。
ジントニックでそのバーテンの資質が決まるなんてクソみたいな基準だ。それは大資本の居酒屋と比べてに過ぎない。オリジナルカクテルが美味しいも然り。バーはそんな場所ではない。あくまでやり取りをするのがカウンター。だからカウンター。装飾に過ぎない。
振り出しに戻るが、大抵洋画に出てくるバーテンは主役にはなり得ない。が、要所の必要な存在となっている。そしてそれを知り集う人々にリスペクトされている。最近の話にあてはめると、テンダーバーのベンアフレックを見ると良い。
ネクタイを締めて背筋を伸ばして、そんなものはどうでもいい。段ボールを運び小銭を数え、肘をついて咥えタバコであろうと、バーテンはリスペクトされるべき存在であるが故、長年店を守っていられる。
店が高いと思うなら、その店が高い訳ではなく、店の選定を間違えている。家でストロングでも飲んでいればいい。金を介した価値交換が支払い。5万払っても行きたい店というのが、本物の嗜好。
若い人には敷居が高い。若い人こそ得るのもが多い。経験とは時間軸にある程度比例する。歳を重ねたバーテンのいる何年も続く店を選べ。そしてケチる事なく金を払えば必ずそれに見合った対価を得る。
スナックのママに対してのバーテンのおっさん。
下心抜きで対峙できるカウンター。
良いバーには良いバーテン。まずはそこを見極めるのが店選び。きっと何度でも通いたくなる店は点在している。壁はその店のアイデンティティの塊。並ぶボトルは価格帯目安、重いドアはそれが重い程に入店者へのフィルターとなる。
入る人は支払額で店をレーティングできるのと同時に、居るバーテンは会話でサービスの取捨選択をする。そして自らの箱に許容すべきか拒絶すべきかを決めている。そのベクトルは様々だから故、無数の店が存在する。存在する以上、何らかの価値がある。